一定のリソースを投入し続けても、投入量が増えるにつれて、得られる成果や収穫が次第に減っていく現象
1年前の5月、私は新たな山の環境に出会い、草刈りや鶏・山羊との触れ合い、何より音響ができることに嬉しくボランティアで手伝いをしていた。
能登の震災直後は大した関係性もなかったし、ボランティアらしいこともできなかったから、被災した方との関係性が持てたことで、よし今から手伝うぞ、と燃えていた。だが、打ち合わせに現場音響、その間は本業を休み、収入が減ることもあったが震災特需で幸い仕事があったのでその埋め合わせはできていた。
しかし、ボランティア(無給)で働く人材と捉えられたのか、応援はいつしか要求に変わり、音響は増え、打ち合わせも増えていき、我が家族を維持できないほどになってくる。
時を同じくして実の母の病状も悪化。仕事中に病院に行っては打ちのめされた気分になる。と同時にこんな良いことをやっているんだよ。と母に見せるためにも頑張らなければ!となお一層仕事を削り無給の活動に精を出す。
本来は、多少の金銭を貰ってもいいことを被災者に比べれば、、、と気持ちの面から言い出せないままに自分の時間は削られる。
ある人は、商業的な活動を被災者のためにと言いながら実行しようとした。私は怒った。それは違うだろ?金沢でそれをやったらダメだろ?だが、被災者支援をしていることに慣れきっている人には、私の労力などどうでも良かった。手伝える人が手伝うだけ。 うん、そりゃそうだ。
これまでは数が少ないから助けられた。しかし数が多くなれば必然的に自分の仕事の時間も奪われる。収入が少なくなると心が狭くなるのは当然のこと。
意思疎通もできなくなった母に会いに行き、休みはボランティアの要求、イベントの打ち合わせ、現場、正直何を一生懸命しているのか、自分では全く分からなくなっていた。ただ人のためにやる。そして自分は悲しい。こりゃいかん!と自分でイベントを打つことにした。
イベントはやってみると大変楽しかったのだが、やはり自分が手伝っている場所では満足できないもんだな〜と感じた。これはきっとマラソンの折り返し地点のようなものだろう。
ここから何を削り、精選していくか。自分らしい立ち方で進んでいこうと思う。